残酷さはある日突然やってくる。いや潜在的な残酷さが表面化したにすぎない。自分を映す鏡を求める人間の醜悪さが、ごく身近なやさしい気持ちのなかからギョッとするかたちであらわれる。
 集団の言語は、集団を離れた直後においても、余韻のように付きまとう。だから、三人称の他者を二人称の他者に接続しようとする営みは、暴力以外のなにものでもない。
 きたなさ。みにくさ。このようなかたちで突きつけられるのなら、出会いなどないほうがよい。

 『男性・女性』を観る。『女と男のいる舗道』のように成功している作品とは言えないけれど、自立した女性の姿には、救われる。これは、1966年の作。そのなかでアメリカの女性はもっと自立しているとある。日本などどうなってしまうのだろう。

 しかし、自立とは言っても、最低限の健康、最低限の容姿、最低限の頭脳がなければなされえない。

 立てないこと。そのことをどう受け入れてゆくのか。

 資本主義社会の恩恵を空気のように吸って生きている現代。その亀裂から見えてくるもの、それを見ようとしない態度は、駄獣に堕することと同じこと。

 人を欺くこと。できないし、されたくない。

 男女が、メンタル面で、交流するあり様は確かに生のエネルギーの一形態だ。だがそれは、相手にとっても、自分にとっても、ごく身近の親しい人に傷を与えない場合にかぎられる。この点に関して最大限の注意を払いたい。