[阿賀に生きる]

 佐藤真さんを偲ぶ会から一年が経つ。見たかった処女作『阿賀に生きる』を観る(@アテネ・フランセ)。佐藤さんは、ほんとうに優しい人だと思った。レンズの前に立つ人と被写体との境界が、水彩絵みたいにぼやけてくるまで、じっと待つ寛容さ、そこから生まれてくる美、詩による抵抗ということを、ぼんやりと想った。

 ドキュメンタリーは詩である。


〜佐藤さんの二つのことば〜

 「私はいつも、特別で特殊な社会的な物事の対極に、素朴で無垢なありきたりな日常を対置してきた。」


 「あらゆる芸術は、生き難い生の、その深淵を見つめることから表現の源泉を得るのだ。」

[空間]

 Hゼミの集まりに参加させて頂く。一次会、中目黒のピッツアリア「聖林館」、二次会、Oくん宅。生まれてくる空間ということを考えた。一次会は料理がとても美味しく、お店の雰囲気や味覚からくる幸福感や音響やそうしたものからやはり掛け替えがなくでてくる心性の交わり。二次会はアルコール量も増え、意識と無意識との交差点にふと泡のように生じてくる優しさ。次の瞬間にはなくなってしまうひかり。それを暖めていたいと思う交わりが身体性の近さのうちに漂っていて、暖かい気持ちになった。

[詩の会]

F塾。今日もなんだかダメな作品ということで終った。現代詩の路線からあたしの書くものは全くはずれているらしい。さすがにこれほど社会性がないとへこむ。その後、奏へ。奏はいつもホッとする空間。F先生のお話拝聴。王兵の「鉄西区」が観たくなった。ドキュメンタリー作家は、もっとも好きな人種の一つ。映像美の探究(編集)は詩に近いように思った。
 時間が早かったので、久しぶりにSさんと飲む。あたしもSさんも一挙に「カマトト」モードがとれて、可笑しかった。あたしは、精神安定剤としてF塾に行っているのか?

 今日出した詩のようなものをアップ。


  道
                    

天使は、
予測し得ない方向から、
突如、
舞い降りる。


物となった意識。
わたしではないわたし自身。


水。
流れない流れ。
母。


一里塚。
周期に漂う花。
記憶が息を吹き返す、
裂け目。


過ぎ去る一瞬が、
あまりに切ないから、
強く抱きしめてほしいと
懇願したかったけれど、
欲望は、
満たされないことを、
知っていたから、
代わりに痛みを求めた。


数珠なりになった傷が、
ぎりぎりのところで、
生へ反転する、
その不思議、
その奇跡。


優しさが、
崩れ落ちそうになっている。
微笑みが、
枯れそうになっている。


一歩、
また一歩と、
踏みしめる。
虚無に、
耳をすます。

[授業]

 いくら美術系とはいえ、高校生にペトロ・コスタは厳しかったようだ。ドキュメタンリーを観ているだけに、作家の「自分好き」が目についてしまったらしい。しかし、コスタは、感情を映像にするだけでなく、言葉にするのが上手い。倫理は、学者に語らせるよりも、芸術家に語らせるほうが遥かに深さの次元を提示できる。それは、芸術家が学者に比べて、はるかに孤独であることと無関係ではあるまい。集団に飛び込みこもうとする心性、あるいは、マイノリティが肩を寄せ合って世界に背を向ける心性、どちらも、生のリアリティを剥奪していってしまう。
 社会の直中にいて、被傷性にひらかれてあること、マゾヒズムと似てあって、絶対的に異なる必然性への同意。瞬間、瞬間、Yesと応答してゆくこと。

 病院デート3回目。というよりデートはいつも病院。元気なときは一人で立ってられる。弱っているときに側に居てくれる人がいる。氷った心に差し伸べられる暖かい手。矛盾が優しい顔をして坐っている。可笑しみ。