[世界]
またまた世界は悪意だと落込んでしまう。オッくんと電話でお話して少し落ち着いた。わたしはオッくんのお話を聞いているのがとても好きだ。有名な大学教員やそうした教員を慕う学生にろくな奴はいないと思う。かといって、無名のしみったれた教員や学生もそれはそれで問題なのであるが。
オッくんは、現代人とは思えないほどの教養人である。某教員に、「今の日本に知識人なんていませんよね」と言ったら、「わたしはどうなの?」って顔していたけれど、この人は単に名前を売るのが趣味な人である。オッくんみたいな人がいることを知れただけでもよかったと思う。大海のなかで、ゆっくりと遊泳してゆく。この余裕こそが、おそらく大学という場所に求められていたはずだけど、どれほど見える世界が醜悪になっても、ゆるがない広い見えない世界が己れを支えることを知る場所であったはずだけれど、今の大学は、商社よりも、計算によって動いていると思う。というより、商社のほうがフェアであるというか、密室でいったいどれほど傍若無人なことが行なわれているのか、ゾッとする。
「創造的想像力がなければ、とてもこの散文極まる世界を生き抜くことはできない。この創造的想像力のことを自分は、詩と言う。」S.D.「詩の世界を知るべし」
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上野動物園とピカソ展に行く予定だったのだけど、オッくんが風邪でダウンしてしまった。色々疲れがたまったのであろう。もちろん、その大きな原因はあたしにある。と、昨日は、看病のつもりが、ワイン一杯で急に悪寒がして、その後熱くて仕方なく、ずっとレム睡眠で、その間、オッ君はずっと額にアイスノンを載せてくれていたらしい。その間ずっとオッくんの「女好き」の夢を見ていた。
「ミイラとりは、ミイラに癒されている」。
最近は、自己認識よりも、オッくんが言ってくれることのほうを信じるようになり、S.W.の詩や詩学や「詩をもつこと」について語っているときが、一番筆がのっているということが分って、少し気持ちが落ち着いてきた。
ここ10年書き散らしてきたものを、「S.W.の詩学」でまとめようと思う。
[優しさ]
わたしにとって、何かを書くことの発露は、苦の表象であったから、心安らかな日々を送っていると、何も産み出さなくなってしまう。生が若干創造的でありうると、別バージョンでの創造の必要性は、ひとまず、「息を吸う」というレヴェルではなくなってくる。
論文が書けなくなってしまったこの一年余り。対象を思いやるだけの寛容さを持ち得ず、対象を論じているのだか、自分を語っているのだか、訳分らず、ゴミ箱行きの数々の雑文。
この間、N先生のゼミに出ていて、久しぶりに、「S.W.だったら?」という半ば習慣化された思考回路が再び開通した。
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一人の個人がもう一人の個人と溶け合ってしまうとは、いな、溶け合ってしまいたいと思う衝動とは、どういったものだろうか。少なくともわたしの場合、優しい気持ちに包まれて、精神的なレヴェルにおいても、身体的なレヴェルにおいても、とても恥ずかしい思いをして、そのことを受けとめてもらえることと不可分であるような気がする。そうした無数の瞬間ショットが、不安や心配の奥底で、「こちら側」に繋ぎ止めてくれる、強力なエネルギーになる気がする。
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ミクシを書かなくなって、一ヶ月半が経つ。自分のきわめて個人的な心情を、薄い関係性の人々にさらけ出していた一年半を考えると、空恐ろしい気がしてくる。自分一人では制御できないこと、また、自分一人では創造しえないことが、日常生活のなかに、沢山ある。
[倫理学会]
なんだかんだいっても10年も入っているこの学会。昨日は、いやいやながら、筑波くんだりまで行ってきた。S.W.つながりのK嬢がパネリスト。嬉しくなった。「おかしい」と思う空気を敏感に感じ取り、吐き気を催し、そこから、言葉が出せる稀有な存在。
会いたい人には、ちゃんと会えているのかもしれないね。
博論の〆切を、2009年3月31日と、勝手に区切ってみる。5年間の間に、書きたいことは山ほどある。「鬱ってる」場合じゃない。長く続いておくれよ、躁くん。